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藤原泰衡終焉の地を行く 1(贄ノ柵)

 2016年9月3日、奥州藤原氏四代目・藤原泰衡の命日合わせで秋田県大館市の関連史跡を巡りました。

 今回はそのうち
「贄ノ柵」について。


 奥州合戦に敗れ北へ逃亡した藤原泰衡は文治五年(1189)9月3日、身を寄せていた比内郡の「贄ノ柵」にて家臣であり柵の主であった河田次郎に殺されます。泰衡の首を厨川(岩手県盛岡市)に駐屯中の鎌倉軍に届けた河田次郎も、その不忠を責められ恩賞を得るどころか源頼朝によって殺害されてしまいます。

 その泰衡最期の地、贄ノ柵は秋田県大館市二井田字館にあり、周辺には泰衡関連伝承地も多数あります。

 とりあえず前日は大館市内に宿を取り、早朝に出発。




贄ノ柵
 


 〈さわやかみなみ号 二井田・扇田病院〉というバスで大館駅前から乗車し、二井田入口(二井田だったかも)で下車しました。
 路線と時刻表は 
こちら

 字名はあっても具体的な下車バス停はわからなかったので、地図とにらめっこしながらここだろうと当たりをつけて「二井田入口」で下車したのですが、ドンピシャでした。
 なんと目の前に「贄ノ柵」の案内板が!


贄柵案内版(修正)



 そのまま案内板の示す住宅街の中に入るとありました。「贄ノ柵」の目印とされる小さな社です。



贄の柵



 この社のある周辺が贄ノ柵の推定地です(ちなみに贄ノ柵はかなり広大な面積を持っていたと推論する学者もいます)。

 そして傍らの贄ノ柵説明板には驚愕の説明が!



DSCN7129(ブログ用)




城主河田次郎没後八百年に因んで

(略)
贄柵は壮大な館を構え、国隣へ武勇を轟かし、(河田次郎は)実直で人望の高い武将であったので領主である泰衡を手厚く迎え接待していたが、鎌倉方からの追及が激しかったので度重なる城内会議など、その物々しさに切羽詰まっている状態を察知した泰衡は、自分が居ては迷惑をかけるばかりだと判断、館を逃れ川向いの葦原の中で自害して果てた。
 次郎は困り果てたが死んでしまってはどうにもならず、泰衡の首を持って鎌倉方へ届け出た。だが頼朝は、主君である泰衡の首を切るとは不忠も甚だしいと、次郎に逆臣の罪を冠せ断罪に処した。
 館に残った一族の豪族化を恐れた頼朝は、猜疑心が強いので一族断絶の命令を下しその刑を執行したのである。今、下高村を「ハリツケバ」と言うが、当時の一族の刑場であったと伝える。
 その後、館町内の人々は、かねてから次郎が氏神として城内で崇拝した諏訪八幡神社と、泰衡の霊を祀る錦神社の二社を大切に維持して現在に至っている。
 




と、この案内版にはあります。
 鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鑑』では、「泰衡は頼った先の河田次郎に裏切られて殺され、その首を届けた河田次郎も不忠の者として頼朝に処刑された」とあり、泰衡は臣下に裏切られた情けない主君であり、河田次郎は主殺しの大罪人であるとされています。
 しかし、この案内版の記述はその『吾妻鑑』の記述と事実関係そのものから真向対立し、泰衡は元より河田次郎を全面的に擁護する内容です。

 とは言っても「しょせん『吾妻鑑』は勝者の記録であり、敗者の側が長く言い伝えてきたこちらの方こそ真実」と言うのも危険です。勝者がしばしば自身に都合よく、かつ敗者を不当に貶める記録を残すことはあるでしょうが、あらゆる歴史にそれを当てはめて『真実の史実』を夢想してしまうのは歴史の見方として安直です。
 そもそも昭和25年に金色堂の泰衡の首が調査された時に、法医学者によって死の前に戦闘によってついた傷が複数あることが確認されています。泰衡は何者かに襲われて殺されたのであり、自害というのはほぼあり得ないでしょう。泰衡が自害に至る心理、その後の河田次郎の対応などもいかにも辻褄を合わせた物語的作為を感じます。

 もっとも、泰衡が何者かに殺されたとしてもそれが頼朝にその首を届けに行った河田次郎では無かった可能性はあります。実は主殺し自体は冤罪で、だからこそ河田次郎を擁護する言い伝えが生成したという可能性もあります。
 また、後半の河田一族が族滅された件は『吾妻鑑』に一言もありませんが、私はこのような話に類する事態はあった可能性が高いのではないかと思っています。前半の泰衡と河田次郎のような物語的な作為に欠けるのもかえって言い伝えの正しさを示しているように思えます。

 しかし、仮に河田次郎が『吾妻鑑』の言うように、保身のために泰衡を殺していたとしてもそれはそんなに責められることでしょうか? 少なくとも頼朝や『吾妻鑑』に非難されねばならないことでしょうか?
 そもそも河田次郎が主君殺しに手を染めねばならなかった根本には頼朝の奥州侵略があります。(注1)

 河田次郎は確かに泰衡にとっては加害者ではあるけれど、彼もまた頼朝の奥州侵略の犠牲者の一人であった。
 河田次郎の地元の人が例え史実と違っても河田を擁護しようとする意志、そして彼の一族の悲劇を教えるこの案内板を見ていると何だかそんなふうに思えてくるのです。

 何より、河田の地元の人が泰衡と河田どちらも貶めずに語っていることが素晴らしいと思います。
 (岩手の某郷土史家から聞いた話ですが、ある時ここを訪問した時に地元の人が河田次郎を祀る神社(?)でお祭りをやっていたそうです。「裏切り者だから、今まであまり大っぴらにできなかったけど、これからは郷土の歴史としてもっと表に出していきたい」と語っていたとか)


贄柵(修正)


 それにしてもこの社っぽいのは何なのでしょうか? 案内板に「次郎が氏神として城内で崇拝した諏訪八幡神社」とありますが、この社がそうなのでしょうか?

 実はこの隣がコミュニティの集会場みたいになっていて、この日は何やらたくさんの女性たちが集まり料理を作っていました。
 中から一人の初老の女性が出てきたので、「河田次郎の諏訪八幡神社とはここですか?」と聞いたのですが、「いやぁ、私もそういうのよくわからなくて」との返答。まあ知らない人は知らないっすよね……。

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1959年 廬山会議

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領有

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奥州藤原氏を巡る旅

 実は2016年4月から9月まで仙台に住んでいました。

 その間、奥州藤原氏関連の東北の史跡をたくさん巡り、かなりレアな箇所にも行ったのでその記録を少しづつでも残していければいいなぁ、と思っています。
 まあぼちぼちと。

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