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農/民/運/動/講/習/所

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 黄/埔/軍/校に続いて紹介する場所は「広/州/農/民/運/動/講/習/処」。

 ここでは1926年の第一次国/共/合/作/時代に毛/沢/東が所長として務めていた。ここは農民に革命について教える、という場所ではない。農民を革命の隊列に組織するため、革命家の若者達に農民が抱えている問題や農民運動そして農民の組織化について教える場所である。ここで方法論を学んだ彼らはやがて農村に派遣され、農民の組織化を始める、というわけ。



 で、この「農/民/運/動/講/習/処」、通称「農/講/処」は毛/沢/東が深く関わった場所であるため、今でも重要な史跡として広州の中心近くに保存されている。


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 入り口。
 実はこの場所は、元々孔子を祀る「番寓学宮」という孔子廟兼儒教学の寺子屋みたいな所だったのをそのまま利用している。建てられたのは1370年、という実に600年以上の歴史を持つ建造物。封建主義の象徴とされた孔子の廟が、革命の史跡になっているとはなんともおもしろい。

 その「番寓学宮」の文字が掲げられた門の屋根の右下に農講所の事務を取り扱っている「庶務部」とがある。・・・・・・って、屋根と壁の間が相当のスキマとなっているけど、これじゃ雨が降ったらずぶぬれになるんじゃ?

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ななめから雨がふきこまれたら終わりな庶務部。


そしてその庶務部を右に曲がった突き当りには・・・・・・

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主席出現! 1926年の30代だった主席が再現されている!
しかもしかも・・・これ(よくわからないけど)石膏製だよね? だというのに30代の頃の主席のまろやかな顔立ちが再現されている。
そしてさらに驚くべきは、その唇。確か、主席はスメドレーに「女性的(特に唇とか)」と評されていたように思うけど、いかにも触れたら柔らかそうな唇が石膏で再現されている! すごいよ、すごいよー作った人! 

と、感動しつつふと横を見ると

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しゅ、主席!? こんなとこでなにやってんすか!?
奥様とお子さんと一緒なのはいいけど、どこを見つめてなにしてんのかわかんないよ。
中国はこの手の再現(何を再現してんのかは不明だが)蝋人形とか多くてね。




 さて、いつまでも門の周辺でうろうろしてないで、まっすぐ奥に行く道に戻るか。

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 門から中にはに進むと正面にあるのが「課堂」。つまり教室。
 ここで毛/沢/東が「中国農民問題」を講義したり、黄/埔/軍/校から出張してきた周/恩/来が「軍事運動と農民運動」という講演を行ったそうだ。
 内部には当時の机や椅子が再現されて並べられているけど、それだけじゃスペースが余るのかよく企画展示もやっているらしい。私が行った時はちょうど「5.4運動」九十周年が近かったのでその展示をやっていた。


 この「課堂」の裏にはまた中庭があって、その奥にはもう一つ似たような建物が。

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こちらは食堂。
 ここで学ぶ者たちが当番制で食事係を担当し、また中にはイスラーム教徒とかもいるのでそういう人にも配慮したメニューを作っていた、と説明にあった。
 中はこんな感じ。

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そして中庭の両端にある棟が、ここで学ぶ学生達が寝泊りする「宿舎」。(中国の古い建物の例にもれず、ここも「四合院」造りで、中庭を四つの棟が取り囲む構造になっている)

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 ・・・・・・・・・うわっ(汗)。
 こ、これは二段ベッドならぬ三段(段?)ベッド? あの真ん中のハンモックみたいなのも寝るスペースなのだろうか? 一段目と三段目もあんまり良いものじゃないが、真ん中の人に比べたらマシだよね。あの黄/埔/軍/校の「男詰め」な学生用寝室が天国みたいに思えてくる。


 で、この「宿舎」の裏が「軍事訓練部」。ここで学んだ学生が黄/埔/軍/校に行ったり、黄/埔/軍/校で学んだ学生がここに来たり、はたまた黄埔の教官が簡単な軍人訓練を施しに来たり、と農民運動を学ぶ場所とは言え、軍事訓練とも浅からぬ関係にあったようだ。

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 こうゆう展示物見ると、ああ中国だな~って感じ。中国近現代系の史跡ってほぼ必ず当時使われていた銃の展示がある。




 さて、次は「農講処」的見地から離れて、「番寓学宮」としての写真をいくつか。

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 こ、これはシーサー!?(←違う) 何気に可愛いんだけど。
 耳がちょっと鱗みたいになっていてナマズのようなヒゲもあるけど・・・四本足。なんの神獣なんだろ?
 黄埔の学生たちにも密かに人気の可愛さだったりして。


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 こちらはムクロジ科の木である「リュウガン(龍眼)」。なんと樹齢180年ほど。


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 そしてこちらはやはり樹齢200年の「キワタ(木綿)」の木。綿のような種子を枝につける木で、広州は「木綿の街」と呼ばれるほどキワタが多いという。


 ところで、写真に高層ビルが見えるが、始めに書いた通りここは大都市・広州のど真ん中。一歩外へ出れば、大通りを車が行き交い、雑多な熱気と騒々しい音に溢れている。
 しかし、この「農講処」の中は別世界。樹齢何百年の木々が涼しげな木陰をつくり、樹上からは小鳥のさえずりが聞こえ、心地よい風が吹く静かな空間なのである。

 広州の中心である門の外は大いに変わっても、ここだけは、毛/沢/東が所長を務め軍校が休日になれば林/彪たちも訪れた80年前の、いや200年前、もしかしたら600年前の時と空間がそのまま残っているのかもしれない。





 


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黄/埔/軍/校(5)

 黄/埔/軍/校レポは今回で最後です。

 今回は黄埔島(長洲島)にある他の施設を紹介。



孫/文/故/居


 黄埔島の船着場に着くと、まず丘の上に軍校の創立者であり中国革命の父である孫文の銅像を見えます。そして軍校へ向かう道を行くと、最初に現れるのが黄埔島における孫文の家「孫文故居」です。

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 ・・・・・・なんともカレー臭漂う建物ですが、広州にある孫/文の政府公館「大/元/帥/府」もまたこんな色。・・・・・・黄色大好きなんか? 孫/文。


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 そしてこの建物の入り口には「黄埔軍校旧跡記念館」の文字が。
 ・・・って、これじゃこの建物が「黄/埔/軍/校」なのかと勘違いする人続出なんじゃ・・・・・・
 でもこの文字、この軍校の(伝説の)第1期卒業生にして人/民/解/放/軍/十/大/元/帥の一人・徐/向/前の手に揮毫なのですね。1983年に作られたようです。
 ちなみに他に黄埔の卒業生または教官であった十大元帥は、林/彪(第4期生)、聶/栄/臻(政治部秘書&政治教官)、陳/毅(武漢分校教官)、葉/剣/英(教授部副主任)、徐/向/前(第1期生)。元帥の下の大将クラスでは、陳/賡(第1期卒業生、教官)、羅/瑞/卿(武漢分校生)、許/光/達(第5期生)がいる。共産党系で他に有名なのは、周/恩/来(政治部副主任)、満州で抗日闘争を指導した女性・趙/一/曼(武漢分校生)、左/権(第1期生)など。


 「孫/文/故/居」はもちろん中も見学できます。
 その二階バルコニーから見た光景。


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 珠江が目の前に見えてなかなかのロケーション。
 と、思ってたら中国人の女の子グループに声をかけられました。この頃、私は今以上に中国語が出来なかったのですが、女の子がグループでいてカメラを差し出しているのならば意味することは一つ。私達の写真を撮ってください、だ。
 で、断る言葉も思いつかないんで(まあ、わかっても断らなかったが)引き受けたのだけど、チーズの言葉がわからない・・・・・・何とかアイコンタクトでシャッターを押してあげたけど、この時点になると彼女らはやや驚いた目で私を見ていた。外国人だと気づいたのだろう・・・・・・そうだよね、外国人の女が一人で軍校を見学しているのって珍しいよねぇ~。



軍/校/倶/楽/部


 船着場から軍校へ続く道とは逆方向に行くと、「軍/校/倶/楽/部」と呼ばれる建物に着きます。
 この倶楽部は、大礼堂とも呼ばれ、1926年3月に落成。
 4000人が収容可能な施設で、ここで集会や休日の学生たちの自主文化活動が行われました。

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 正面入り口に「楽」の文字が見えますが、「倶楽部」の「楽」で左右にちゃんと「倶」と「部」があります。

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 で、別の側面から見た倶楽部。ちょっと教会っぽいのが特徴。


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 で、その内部。なんだかやたら現代っぽい椅子が見えますが、気にしたら負けです(誰に?)。
 軍校の学生組織・青/年/軍/人/連/合/会の劇団「血/花/社」もここで休日に革命劇や啓蒙劇を上演していたことと思います。
また、1927年の蒋/介/石による反共クーデターの一日後には、軍校にも共産党員を逮捕する指令が下り、共産党員と目された200名近くの教官・学生がここに監禁され、一部は別の場所に移され殺された、という。

 この倶楽部も1938年に日本軍の破壊を蒙り、1993年に完全に再建されたものです。



遊泳場


 なんとこの黄/埔/軍/校にはプールまでついているのです。
うわっ、すっげー。1920年代の中国にプールがどのくらい普及していたか知りませんが、プール付きなんてなんか豪華でモダンな感じがしますね。

 で、くだんのプールは倶楽部の隣にあります。






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 ・・・・・・・・・・・・うん、わかっていたさ。まあ、そうだよね。ある意味期待を裏切らない出来だ・・・・・・。
 なんか水が水のはずなのに思いっきり緑っぽい色になっていましたが、まあ、当時はもうちっときれいだったのでしょう。

 この遊泳場は決して暑い広州において学生達を涼ませるために造られたものではなく、れっきとした軍事訓練施設でした。
 軍校には全国各地から学生が集まっており、中には海はおろか川も湖もないような地域から来た者もいました。当然、彼らは泳げません。しかし、実際には水郷地域などでの戦闘も想定されます。なので、泳げない学生を訓練するためこの遊泳場は造られました。
 当時はこの遊泳場と珠江が繋がっており、遊泳場で軽く身体を慣らしたから珠江で泳ぐ、という訓練だったのかもしれません。

 また、こんなエピソードもあります。
 ソ連は黄/埔/軍/校に出資しただけでなく、多くの軍事顧問を派遣していました。その中にパブロフという極めて優秀で中国人教官との信頼関係も良好な(ソ連の軍事顧問と中国人教官の間の仲は当初多くの場合あまり良好ではなかった)ソ/連/赤/軍の将校がいました。彼は戦場では大変勇猛果敢な将軍として名が知られていましたが、ただ一つ弱点がありました。それは、水が異常に怖い、というものでした。
 ある時、船から陸地までちょっとジャンプしなければいけない時がありました。それはたいした距離ではなく、大人の男であれば余裕で飛べる距離です。ところがパブロフは下船の際、顔面蒼白になって怯えたあげく足を滑らせて珠江に転落し、溺死してしまいました。

 ・・・・・・ちょっと怪しい箇所が無きにしもあらずなエピですが、ともかくこのパブロフの悲劇を繰り返さぬため、軍校は学生たちに水泳訓練を施す必要を痛感した、というわけです。


 ところで東屋みたいのが見えると思いますが、これは更衣所です。
 この更衣所が出来たのにも以下のような経緯があるそうです。


遊泳場が建設された当初は更衣室がなく、学生たちは宿舎で下着姿になると、そのまま衆目にさらされながら遊泳場まで歩いて行かなければならなかった。これは軍校の風紀を乱しかねないことであった。(『中国黄埔軍校』陳宇/解放軍出版




 ・・・・・・・・・・・・いったいなんのプレイだ、それは。
 って言うか、軍校から遊泳場まで軽く3,4百メートルはあるんだけど・・・・・・。
 風紀が乱れるって、最初から気づけよ、いやその前にどういうふうに乱れるのか詳しく聞きたい、腐女子的に。



おまけ


 黄埔島には他に「東/征/烈/士/墓/園」とか「砲台」とかいろんな関連場所があるのだけど、どこにあるか見つかりませんでした。
以前も書いた通り、この島は普通の住民も住んでいますが、軍事区域でもあります。なので立ち入り禁止の場所とかもあるはずですけど、私にはいまいちどこがそれなのかわからない・・・・・・うろうろしてうっかり軍事地区に近づいて軍人さんに声かけられるのも怖いんで、見つからない場所は(行きたかったけど)あまり探し回らないことにしました。
 まあ、だいたいは大丈夫なはずなんですけどね。でも一番最初に島に行った時、普通に道歩いていたら、突然歩哨が立っていたりしてびびりました。なんかその向こうの道も普通の街な気がしましたが軍人限定地区だったらやばいので逃げ帰ったのですが・・・・・・二回目行ったら歩哨に見咎められることもなく普通に進んでいけました。
 
 またここには軍事マニアも多いので、島のあちこちに有料で兵器などを展示している施設もいくつかあります。


 さて、軍事区域と言えば、こんなのもいました(以下の写真は2010年に行った時のものです)。

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 潜水艦!潜水艦! しかも建造中?

 ちなみに軍校正門近くにも金網越しの珠江によく軍艦が泊まっていますが、金網には「ここは軍事区域だよ、写真撮るならその結果どんなことが起こっても全部自分で責任負ってね☆」とかいう紙が貼ってあったような記憶があります。
 でもみんなふつーにパシャパシャ軍艦撮りまくってたけどね☆



 さて、そろそろ黄埔島ともお別れ。船着場で船を待ちます。30分に1本来ます。

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 さよなら黄埔島。


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 このへんは有名な造船場もあります(船のルートによっては通りません)。

 さて、次回の紅色旅行は、広州の他の革/命/遺/跡を紹介。

黄/埔/軍/校(4)

 今回は軍校展示物中心に書いてみます。



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 まずはお決まりの軍服。上のは教官用。


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 こちらは学生用。なんか学生の方がいい感じですね。林/彪なんかは紅/軍/軍/服よりも黄/埔軍服の方が似合ってそうだな~。(一番似合っていないのは文句なく元帥服だが)

 ところでこの軍服、竹/内/実の「現代中国への視覚 上 黄埔軍官学校のこと」(『現代思想』1997年4月)によれば

 日本の影響ということでは、学校の制服(軍人の学校ですから、軍服ということになりますが)が、日本軍の軍服をお手本にしたということがあります。
 佐々木到一によりますと、そのアイデアはかれがだしたことになっています。軍官学校の設立を準備するさい、学生に支給する制服のデザインを準備委員が、広州の沙面に日本人が開いている唯一のデザインを頼んだ。洋服屋は軍服のデザインなんてやったことがないので、佐/々/木/到/一に相談した。それで佐/々/木/到/一が、これどうなんでしょうね、「米国式の軍服をダブルの詰襟にしたものが中国の軍人には向くだろう」(三七〇ページ)と答えたというのです。(中略)日本陸軍はながいあいだ立てた詰襟でしたが、第二次世界大戦中、この「ダブルの詰襟」―ねかせた襟にした新しいデザインに変更になりました。(略)佐々木到一は、そうすると、かなりモダンなセンスがあったということになります。




 モダンなんだ・・・・・・。
 この話が本当だとすると、黄埔の軍服は日本人によってデザインされたことになる。そしてそれを着て軍人となっていた人々が、後に日本との戦いの中核を為したと思うといろいろ複雑な気分だ。
 ・・・・・・でもこの「自分が黄埔の軍服デザインした!」って言っているの佐々木本人だけなんだよね・・・・・・他の資料にはまったく触れられていないが・・・・・・。




 ところでこの黄/埔/軍/校では、軍校に関わった人々(教官・卒業生)の肖像画を展示しているコーナーがある。肖像画、といっても本当に人物が突っ立ているのもあれば歴史的な場面を描いた絵もある。
 とりあえず、私の黄埔同人誌の主要キャラ・林/彪,陳/賡,劉/志/丹、しゅう恩寿のうち、前者3人の絵を撮ってきた。
 当たり前だが(歴史的に何もやっていない・・・ぶっちゃけ一般人の)恩寿ちゃんの絵はなかった!(泣)って言うか痕跡も無い。いっそご愛嬌で周/恩/来お兄ちゃんと並んだ絵でもあってもいいのに(ご愛嬌でそんな絵を作るほど中国も閑ではないだろうが)。さらに陳/賡とセットになっていたら(私が)泣いて喜ぶ(腐女子を喜ばせるためにそんな絵を描く閑はもっとない)。


 んじゃ、まずは林/彪。

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 林/彪在(in)平/型/関!
 なかなかかっこいい・・・と言うか展示されていた絵の中でもベスト5に入るほどのかっこよさだった! 林彪もホント出世したよなって感じ。
 ちなみに一番左で双眼鏡持っているのが林/彪。隣にいるのは聶/栄/臻。八/路/軍の軍服がまるで写真のようにリアルだ。


 続いて陳/賡。

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 こちらも抗日戦争中の絵。確か舞台は太行山脈だったと思う。
 いかにも陳/賡らしい快活な笑顔がグッド! 写真でもそうだけど、この時期の陳/賡って馬とセットなイメージがあるよな。

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 劉/志/丹。1935年、長/征の中/央/紅/軍を劉/志/丹率いる陜/北/紅/軍が迎え入れた「紅/軍/会/師」の場面。
 左側の馬に乗って手を挙げている人が劉/志/丹・・・・・・って高/崗も描かれてるよ!(右側でもう一人馬に乗って手を挙げている人)ちょっとびっくりだ。


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 まだいっぱい展示されていたけど、最後は周/恩/来と蒋/介/石。三度目に軍校に行った時、同行した方に「なんか周の絵だけ精細がない」と言われた絵。確かに・・・ツマンナイ絵だよね。
 左が周で右が蒋。・・・つーか、こうやって見ると周の方が攻に見えるのがホラーだ。


 さて、再び展示アイテムに戻ります。

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 これは伝説の(笑)「中正剣」。
 またの名を「黄埔剣」、「成仁剣」とも(刀に「成功成仁」の文字があったから)。

 中正とは蒋/介/石の字。黄埔の学生は卒業時に蒋介石校長よりこの剣を下賜されるというわけ。刀身には上記の文字の他に「校長蒋中正賜」の文字が刻まれている。この短剣を持つことは黄埔の卒業生の証であり、30年代の中国軍人の誇りであった。「軍人魂」のシンボルではあるが、一方で蒋介石が卒業生と一種の君臣関係を結んだというシンボルでもあるだろう。 
 刀は全長40センチ前後。柄に花文様がある他はシンプルなデザイン。



 さて、最後は最も衝撃なアイテムを。












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 ガンダム!!(確かSEEDだった)

 軍校内のお土産品店に売ってました(外のフリーダムな売店ではなく校内の公式売店)。軍校関連本やグッズに混じってフツーに売ってました・・・・・・。
 ガンダムも軍校関連グッズかよ・・・ニュータイプも育てていたとは知らんかった・・・・・・(ちなみに2010年現在、この売店はなくなっています)

黄/埔/軍/校(3)

 あいかわらずのびのびの黄/埔/軍/校レポート。
 今回は軍校内の各部屋を見てみましょう。

 前回も書きましたが(だったけ?)、黄/埔/軍/校は2階建てで横に3つの棟が4列連結しているようなつくりです。「目」という漢字の中に縦線が2本つけ加えられた形をイメージしてください。


 まず最初に紹介するお部屋は

校長室

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 校長、こと蒋/介/石のお部屋は門から見て一番手前の棟の2階はじっこに存在しています。門は珠江のすぐ目の前にあるので、校長のお部屋からもよく見えたことでしょう。

 白いテーブルカバーに汚れ一つない真っ白なソファー。いかにもいつも白い手袋を手からはずさない清潔好きな蒋介石らしいお部屋ですね。
 日本の士官学校で学んだ蒋/介/石は、清潔できちっとすることこそ、中国人の気質を叩きなおし強国になるための第一歩とでも思ったのか、学生たちにも整理整頓の習慣と衛生観念を厳しく指導。
 そこらへんに痰を吐くのを厳禁したのはもちろん、前述の白い手袋で学生たちが清掃したあとをツツゥーーとやってホコリが残っていないかチェックする・・・・・・なにそれ、どこのお姑さん?というようなマネも。

 さて、一瞬部屋の奥で誰かが首吊り自殺しているように見えるかもしれないが、窓際には軍帽と蒋/介/石のトレードマークであるコートがかけられています。

 そして壁に貼られているのは、第一期の学生全員の名前。

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 陳/賡とかの名前もあるのでしょうね。
 第一期の頃はまだ学生が400人あまりで(後に4000人/期以上にもなる)、蒋/介/石もわりと熱意があったのでこういう工夫をして学生全員の名前を覚えようとしていたとのこと。
 そして学生を将来の自分の側近、言わば軍事的資本とするために、よく見込みのありそうな学生を呼び出しては語らいをしていたとのこと。師弟関係を強化し、党や国のためというのを前面に押し出しながらも、蒋介石個人に対して忠誠を誓う学生育てようとしていたのでしょう。


以下反転
 ところで、どこの部屋も基本的にそうなのですが、校長の部屋って外の廊下から中が丸見えなんですよね。
 こんなところで、例えば周とかとあの真っ白なソファーであんなことやこんなことをやっていたら、外から丸わかりですね!
 年頃の学生たちに対して教育上(だけか?)超悪いよね!
 でもやっぱりあの白いソファーがエロイので、やっぱりこの部屋でばれないように工夫してやってほしいものです。



総理室
 
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 総理こと孫/文のお部屋は、蒋介石の執務室が二部屋続いたその隣にあります。
 孫文は黄埔島に一軒家を持っている上に、広州市内にもお家があるくせに、わざわざここにもこんな豪華な専用部屋が必要なのかちょっと疑問ですが。



学生寝室



 さて、お次は学生たちの寝室。奥の棟にある部屋はこんな感じ↓

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 ・・・・・・いやいやこれはすごい。
 プライバシーも何もないのはもちろん、ここは南国広東省ですよ? 夏とか平気で35度とか超えるよ?
 そこに20代前後の男の子たちがぎゅうぎゅう詰めにされた日には、いろいろ地獄だと思いますよ?


 ちなみに本来2部屋のスペースを壁をぶちぬいて1部屋にしている。
 1部屋にあるベッド数は4つで一組のようなものが、14組。つまり4×14で56人分のベッドがあることに。
 もう一箇所、まったく同じ学生寝室が展示されているが、もちろんそれを含めても展示されている部屋だけで、学生を収容しきれるわけではないでしょう。展示は忠実ではあるけど、一部だけで他の展示用に使われていない部屋や校外にも寝室や宿舎があったことと思われます。


 ベッドの上には布団が実にキチンと畳まれています。これはお姑さん・・・もとい整理整頓の鬼・蒋/介/石校長の教育の賜物であります。
 学生たちは5時に起床して(就寝は9時)一日の訓練に向かいますが、その後教官たちが部屋に入って布団がちゃんと一分の隙もなく正方形に畳まれているかチェック。いい加減に畳んだ学生は後で怒られます。
 当時、この軍校を視察した日本軍人(佐/々/木/到/一)がいますが、彼は布団の畳み方を見て日本の士官学校を思い出しまるで豆腐のようにきちんと畳まれている、と感嘆したとのこと。(中国の黄埔研究本にも「男ばかりの宿舎というと足の踏み場も無いほど散らかっている光景を誰もが想像するだろうが、黄埔はその想像を裏切る」と書いてあった・・・どこの国でも男の園は同じなのね。)


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 壁の側には学生たちの持ち物が置かれています。
 軍帽、軍服、編み笠、洗面器、コップ、タオル、わらじ・・・。
 
 これが支給品のすべてです。もちろん一人一つまで(軍服は2着だったそうですが・・・暑い広東で汗まみれになって2着だけというのはかなりハードだったもよう)。
 編み笠は雨の中での活動の際に使ったのでしょう。
 で、わらじですが・・・・・・開校当時の黄埔はとてもとても貧乏でした。なので学生たちに軍靴を支給することができず、代わりにわらじを配ったとのこと。


教練部

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 お次は各部署の教官たちの部屋から、「教練部」を。
 軍校の組織は、「教授部」「教練部」「政治部」「入隊伍部」「経理部」など6つの「部」があり(その他に「科」や「処」もある) 、各部署も再現され展示されています。まあ、だいたいどこも似たような部屋です。
 
 「教練部」は実際に学生たちに銃の撃ち方や馬の乗り方などの訓練を行い、戦術など実務的なことを教える教官が配属される部署です。「教授部」との区別がちょっと難しいですが、「教授部」は授業全体のカリキュラムを調性したりともっと全体的なことを管轄する部署といえるでしょう。

 ちなみに「入隊伍部」は、軍校に正式入学する前の候補生の訓練を担当する部署です。(黄埔の正式教育期間は半年ですが、実はその前に数ヶ月の予備訓練期間があります)



政治部

 軍校の部署の多くは2階にあるが、「政治部」は1階にあります。2階の部屋と違い、床はコンクリートのようです。

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 黄埔軍校は軍事とともに政治教育にも非常に力を入れていました。彼らが目指したのは「革命軍人」、すなわちただ金で雇われて兵士をやるのではなく、革命のイデオロギーを充分に理解しそれを実現するために戦う軍人の養成だったからです。
 主任であった戴/季/陶が一期の半ばで国/民/党内のゴタゴタで辞任した後、政治部の主任に赴任したのが、26歳の周/恩/来。あの前に一つある席に座っていたのかな?
 また、後に十代元帥の一人となる聶/栄/臻も秘書として周の下で働いていました。



食堂


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 食事時間は正味十分ほど。校長や教官たちと一緒にとります。
 食事一つにもいくつもの厳しい規則があり、例えば外から食べ物を持ち込んではだめとか、校長が箸をつけるまで学生は食事を始めてはいけないとか・・・。
 もしも食事を前にして校長が思いついて演説でも始めようものなら、その時は国共どちらの所属かは問わずすべての学生に殺意を抱かれたことでしょう。でも校長本人は気づいてないのな。

 ところで学生たちは全国津々浦々から集まっており、食事の習慣もさまざま。
 例えば饅頭食中心の北方出身の学生は箸の使い方になれておらず米飯に苦労し、湖南省出身の学生はトウガラシが足らないと文句を言い・・・湖南省出身の学生はかなりいたので「食事にトウガラシ料理を増やせ」闘争が行われたとかいないとか・・・・・・
 何にしろ、食事に関しては必死すぎる黄埔学生の姿を偲ばせるエピソードが多くて微笑ましいです。



番外編


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・・・・・・・・・実は再建された黄/埔/軍/校は、その一部が実際に使われています。
 そもそも黄埔島の一部自体が軍事地区ですし、島の中には一般人の街もありますが、モノホンの人/民/解/放/軍の若者たちがぶらぶらしていたりもします。/


 おそらくその若い軍人たちの教育の一環として、黄/埔/軍/校の一部に宿泊させるというのがあるのでしょう。古人の苦難の歴史を体験させるというやつでしょうね。
 それとは別に、一般の学生(下は小学生から上は大学生まで)を黄/埔/軍/校に宿泊させて、軍事訓練の体験をさせるという企画も行っています。一人っ子でたるんだ精神を叩き直させたいのでしょうか? 
 上の写真はおそらく訓練体験者たちのものなのでしょう。私が行った時も、軍校の中庭の一角で、大学生らしい男女が数十人、隊列を組む練習をしていました。

 ちなみに彼らの宿泊場所は軍校の一番奥の棟でした。
 

黄/埔/軍/校(2)

 というわけで、黄埔軍校レポ続きです。

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 上のは有名どころの大門(正門)。
 黄埔軍校を紹介するメディアにはほぼ必ず大きく扱われますね。
 大門の上には「陸軍軍官学校」の文字(これが正式名称)、そして左右には歩哨が立つ場所があります。
 そしてこの門の左右の壁にはそれぞれ「革命いまだ終わらず」「同志たちよ、努力せよ」という孫文の遺言の言葉が。


 黄埔軍校は元々清朝時代の水軍学校を改造したものなのですが、この門ももともとの中国風の門にヨーロッパ式の雰囲気を加えたもの。
 シンプルながらも非常に美しい門だと思います。


ちなみにこの門のすぐ前は珠江で、ちょうど河と対峙するような形で門は建っています。
 今は、軍の施設になっているらしく、金網の向こうには軍艦らしきものが停泊。(他にもこの島の一部は軍事地区がある。だけど大半の地区は一般住民が住んでいる)
 金網には「ここより軍事地区、撮影する者は何が起ころうが自己の責任として引き受けること」・・・・・・とか警告文がかかっていた、
 けど他の中国人観光客、バンバン軍艦の写真取り巻くっていたけどね!
 私はチキンなので撮りませんでした。


 ところで、私が行った時は休日だったので、いつでもこの周辺には見学客が大勢往来していてなかなかこの大門だけを撮るチャンスに恵まれませんでした。
 待つこと20分前後。やっと、奇跡的に人の行き来が途絶えたと思ってカメラをかまえたら・・・・・・再び二人連れの男たちがカメラの前に・・・・・・。
 が、私が落胆したのもつかの間。男の一人が、私がカメラをかまえていることに気づき、連れと一緒に門の前から引いてくれました! いやぁ、外国でのこういう小さな親切は嬉しかったですね。

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 大門をくぐった横にあるガジュマルの木。
 実は黄埔軍校は、1938年に日本軍の爆撃で灰燼に帰しており、今あるのは歴史史料として史料や証言を元に忠実に1993年に再現されたものです。
 ただこのガジュマルは、日本軍の攻撃にも耐え、ずっとそのままの姿で在るとのこと。また、幹には日本軍の銃弾の痕が残っているとのことなので、ちょっと探してみたのですが、たぶん↓これじゃないかと(よくわかりませんが)。

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 さて、「大門」をくぐり数歩行くと、今度は「軍校二校門」と呼ばれる門があります。こちらはより「中華風」。

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 黄埔軍校の建物は2階建てで、中庭が中心にありその周りを4つの棟で取り囲むいわゆる四合院造りが横に3つずつ、3列連結して並んでいる構造です。つまり中庭が9つあり、その周囲を囲む棟は互いに連結しているというもの。
 敷地面積は9444平方メートルとのこと。
↓下は軍校の模型。

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 中庭の一つから見るとこんな感じ↓

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 軍校なのに中国建築独特の落ち着いた雰囲気があるというギャップがステキ!
ちなみにこの軍校の建築様式は、広東建築(岒南建築)に特徴的な「騎楼式(走馬式)」。通常の「騎楼式」では二階バルコニーが道路側にせり出しているのが特徴ですが、軍校では二階廊下部分が、中庭の方にせり出す形に。


 さて、次回は軍校内部のお部屋を紹介。





 






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