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黄/埔/軍/校(3)

 あいかわらずのびのびの黄/埔/軍/校レポート。
 今回は軍校内の各部屋を見てみましょう。

 前回も書きましたが(だったけ?)、黄/埔/軍/校は2階建てで横に3つの棟が4列連結しているようなつくりです。「目」という漢字の中に縦線が2本つけ加えられた形をイメージしてください。


 まず最初に紹介するお部屋は

校長室

ko-ho12.jpg

 校長、こと蒋/介/石のお部屋は門から見て一番手前の棟の2階はじっこに存在しています。門は珠江のすぐ目の前にあるので、校長のお部屋からもよく見えたことでしょう。

 白いテーブルカバーに汚れ一つない真っ白なソファー。いかにもいつも白い手袋を手からはずさない清潔好きな蒋介石らしいお部屋ですね。
 日本の士官学校で学んだ蒋/介/石は、清潔できちっとすることこそ、中国人の気質を叩きなおし強国になるための第一歩とでも思ったのか、学生たちにも整理整頓の習慣と衛生観念を厳しく指導。
 そこらへんに痰を吐くのを厳禁したのはもちろん、前述の白い手袋で学生たちが清掃したあとをツツゥーーとやってホコリが残っていないかチェックする・・・・・・なにそれ、どこのお姑さん?というようなマネも。

 さて、一瞬部屋の奥で誰かが首吊り自殺しているように見えるかもしれないが、窓際には軍帽と蒋/介/石のトレードマークであるコートがかけられています。

 そして壁に貼られているのは、第一期の学生全員の名前。

ko-ho13.jpg


 陳/賡とかの名前もあるのでしょうね。
 第一期の頃はまだ学生が400人あまりで(後に4000人/期以上にもなる)、蒋/介/石もわりと熱意があったのでこういう工夫をして学生全員の名前を覚えようとしていたとのこと。
 そして学生を将来の自分の側近、言わば軍事的資本とするために、よく見込みのありそうな学生を呼び出しては語らいをしていたとのこと。師弟関係を強化し、党や国のためというのを前面に押し出しながらも、蒋介石個人に対して忠誠を誓う学生育てようとしていたのでしょう。


以下反転
 ところで、どこの部屋も基本的にそうなのですが、校長の部屋って外の廊下から中が丸見えなんですよね。
 こんなところで、例えば周とかとあの真っ白なソファーであんなことやこんなことをやっていたら、外から丸わかりですね!
 年頃の学生たちに対して教育上(だけか?)超悪いよね!
 でもやっぱりあの白いソファーがエロイので、やっぱりこの部屋でばれないように工夫してやってほしいものです。



総理室
 
ko-ho14.jpg

 総理こと孫/文のお部屋は、蒋介石の執務室が二部屋続いたその隣にあります。
 孫文は黄埔島に一軒家を持っている上に、広州市内にもお家があるくせに、わざわざここにもこんな豪華な専用部屋が必要なのかちょっと疑問ですが。



学生寝室



 さて、お次は学生たちの寝室。奥の棟にある部屋はこんな感じ↓

ko-ho15.jpg


 ・・・・・・いやいやこれはすごい。
 プライバシーも何もないのはもちろん、ここは南国広東省ですよ? 夏とか平気で35度とか超えるよ?
 そこに20代前後の男の子たちがぎゅうぎゅう詰めにされた日には、いろいろ地獄だと思いますよ?


 ちなみに本来2部屋のスペースを壁をぶちぬいて1部屋にしている。
 1部屋にあるベッド数は4つで一組のようなものが、14組。つまり4×14で56人分のベッドがあることに。
 もう一箇所、まったく同じ学生寝室が展示されているが、もちろんそれを含めても展示されている部屋だけで、学生を収容しきれるわけではないでしょう。展示は忠実ではあるけど、一部だけで他の展示用に使われていない部屋や校外にも寝室や宿舎があったことと思われます。


 ベッドの上には布団が実にキチンと畳まれています。これはお姑さん・・・もとい整理整頓の鬼・蒋/介/石校長の教育の賜物であります。
 学生たちは5時に起床して(就寝は9時)一日の訓練に向かいますが、その後教官たちが部屋に入って布団がちゃんと一分の隙もなく正方形に畳まれているかチェック。いい加減に畳んだ学生は後で怒られます。
 当時、この軍校を視察した日本軍人(佐/々/木/到/一)がいますが、彼は布団の畳み方を見て日本の士官学校を思い出しまるで豆腐のようにきちんと畳まれている、と感嘆したとのこと。(中国の黄埔研究本にも「男ばかりの宿舎というと足の踏み場も無いほど散らかっている光景を誰もが想像するだろうが、黄埔はその想像を裏切る」と書いてあった・・・どこの国でも男の園は同じなのね。)


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 壁の側には学生たちの持ち物が置かれています。
 軍帽、軍服、編み笠、洗面器、コップ、タオル、わらじ・・・。
 
 これが支給品のすべてです。もちろん一人一つまで(軍服は2着だったそうですが・・・暑い広東で汗まみれになって2着だけというのはかなりハードだったもよう)。
 編み笠は雨の中での活動の際に使ったのでしょう。
 で、わらじですが・・・・・・開校当時の黄埔はとてもとても貧乏でした。なので学生たちに軍靴を支給することができず、代わりにわらじを配ったとのこと。


教練部

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 お次は各部署の教官たちの部屋から、「教練部」を。
 軍校の組織は、「教授部」「教練部」「政治部」「入隊伍部」「経理部」など6つの「部」があり(その他に「科」や「処」もある) 、各部署も再現され展示されています。まあ、だいたいどこも似たような部屋です。
 
 「教練部」は実際に学生たちに銃の撃ち方や馬の乗り方などの訓練を行い、戦術など実務的なことを教える教官が配属される部署です。「教授部」との区別がちょっと難しいですが、「教授部」は授業全体のカリキュラムを調性したりともっと全体的なことを管轄する部署といえるでしょう。

 ちなみに「入隊伍部」は、軍校に正式入学する前の候補生の訓練を担当する部署です。(黄埔の正式教育期間は半年ですが、実はその前に数ヶ月の予備訓練期間があります)



政治部

 軍校の部署の多くは2階にあるが、「政治部」は1階にあります。2階の部屋と違い、床はコンクリートのようです。

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 黄埔軍校は軍事とともに政治教育にも非常に力を入れていました。彼らが目指したのは「革命軍人」、すなわちただ金で雇われて兵士をやるのではなく、革命のイデオロギーを充分に理解しそれを実現するために戦う軍人の養成だったからです。
 主任であった戴/季/陶が一期の半ばで国/民/党内のゴタゴタで辞任した後、政治部の主任に赴任したのが、26歳の周/恩/来。あの前に一つある席に座っていたのかな?
 また、後に十代元帥の一人となる聶/栄/臻も秘書として周の下で働いていました。



食堂


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 食事時間は正味十分ほど。校長や教官たちと一緒にとります。
 食事一つにもいくつもの厳しい規則があり、例えば外から食べ物を持ち込んではだめとか、校長が箸をつけるまで学生は食事を始めてはいけないとか・・・。
 もしも食事を前にして校長が思いついて演説でも始めようものなら、その時は国共どちらの所属かは問わずすべての学生に殺意を抱かれたことでしょう。でも校長本人は気づいてないのな。

 ところで学生たちは全国津々浦々から集まっており、食事の習慣もさまざま。
 例えば饅頭食中心の北方出身の学生は箸の使い方になれておらず米飯に苦労し、湖南省出身の学生はトウガラシが足らないと文句を言い・・・湖南省出身の学生はかなりいたので「食事にトウガラシ料理を増やせ」闘争が行われたとかいないとか・・・・・・
 何にしろ、食事に関しては必死すぎる黄埔学生の姿を偲ばせるエピソードが多くて微笑ましいです。



番外編


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・・・・・・・・・実は再建された黄/埔/軍/校は、その一部が実際に使われています。
 そもそも黄埔島の一部自体が軍事地区ですし、島の中には一般人の街もありますが、モノホンの人/民/解/放/軍の若者たちがぶらぶらしていたりもします。/


 おそらくその若い軍人たちの教育の一環として、黄/埔/軍/校の一部に宿泊させるというのがあるのでしょう。古人の苦難の歴史を体験させるというやつでしょうね。
 それとは別に、一般の学生(下は小学生から上は大学生まで)を黄/埔/軍/校に宿泊させて、軍事訓練の体験をさせるという企画も行っています。一人っ子でたるんだ精神を叩き直させたいのでしょうか? 
 上の写真はおそらく訓練体験者たちのものなのでしょう。私が行った時も、軍校の中庭の一角で、大学生らしい男女が数十人、隊列を組む練習をしていました。

 ちなみに彼らの宿泊場所は軍校の一番奥の棟でした。
 
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