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□ アラブ近現代史 □

クウェート動乱(2)


 ムバラクの住居は、インドからの富を一時収納し、ターバンを巻いたインド兵が警備をする倉庫街の近くにある。アミール一族から排除されている彼のこの家には、しかし何故か頻繁に西欧の客人があった。イギリス人にドイツ人、フランス人やロシア人さえ訪れる。彼らはある者は商人を、ある者は投機家、あるいは学者や探検家を名乗っていた。インドで作った人脈だと言う以外、やはり詳しい話をムバラクは語ってくれない。
 今日の夕刻にもイギリス人との約束があるようだが、それまでの間、アブドルアジズはいつものように≪授業≫を頼む。
「さて、昨日はどこまで話したかな?」
「オスマン帝国の命運がすでに尽きているという話でした。私としてはそこを聞きたかったのに、ドイツ人の客人が来てそれっきりで……一晩考えましたが、信じられません。あの大国が崩壊するなどと」
「いずれそうなるだろう、という話だ。このことは君たちサウド家に対する我が兄の態度にも関わっているのだよ。我が兄は何故サウド家の亡命を受け入れ、突然見捨てたのか……君の考えを聞こうか」
「……これはいくつかの出来事を元にした私の推論ですが……クウェートは私たちの仇敵オスマン帝国の宗主権を認め、アミール・ムハンマドは正式に知事に任命されている。その立場を無視して、私たちへの同情から匿っているわけがありません。アミールが私たち一家に利用価値を見いだしたからというならば、表面的にでさえもう少し友好的に接したと思います。おそらくですが、アミールは己の考え以外で私たちを保護したのかと」
「ほう? では誰がクウェートのアミールにサウド家の保護をさせたと考えておる?」
「……オスマン帝国しかないでしょう」
 苦い顔でアブドルアジズは吐き捨てるように言った。
「私たちの国を簒奪したラシード家は、オスマン帝国の命令と援助を受けていた……しかし、中央アラビアで一強となったラシード家は、帝国に従わなくなってしまったと聞き及びます。おそらくオスマン帝国は中央アラビアの力の均衡のためにサウド家をしばし生かしておくことにしたのではないでしょうか。その仲介役としてクウェートのアミールが選ばれた、ということかと」
「なるほど、素晴らしい! 儂の知る裏事情と同じだ。己だけでそこまで推察できるとはやはり君は私が見込んだ通りの若者だ」
「しかし、わからないこともあります。何故アミールは私たちを見捨てたのか」
「そう、そこで本題に繋がる。オスマン帝国は中央アラビアの情勢を調整する余裕が無くなったのだ。国庫も尽きようとしている。それに伴って兄に渡していたサウド家の養い金も停止された。ケチな兄は自分の金でサウド家を養う気などない。しかし帝国から新たな命令もないので君たちをクウェートに置いたままにしているだけだ。どうだね? オスマン帝国衰退の余波はこんなところにも現れている」
 それからムバラクは、オスマン帝国が内外に抱える問題についてひとしきり話してくれた。どの話も帝国が末期状態にあることを伝える内容であった。
 クウェートでは各国より集まる船乗りから異国の珍しい話が聞ける。しかし、それはどれも表層的なもので、ムバラクだけがオスマン帝国やイギリスの政治の話まで踏み込む。どれもこれもインドで仕入れた情報だという。
「……と、そのような訳でかの大帝国も今や≪瀕死の病人≫扱いされている。西欧列強はその遺産の分け前を狙っている。沈む船に巻き込まれるのはごめんというものだ。我々アラブもそれぞれ身の振り方を考えねばならぬであろうよ」
 身の振り方とは何だろうか。オスマン帝国が滅びるならば、それはサウド家とワッハーブ派再興の好機ではないか。オスマン帝国の支援を受けるラシード家に敗れてから七年、アブドルアジズは一日とて彼らを倒し、イスラーム復興を目指す王国を建て直す夢を忘れたことは無かった。
 が、ふいにあることに気がつく。
「もしや……帝国の遺産とはアラビア半島?」
「君は本当に聡いな。儂も良き若者を見出したものだよ。人に何か教えるのがこんなに楽しいとも知らなかった」
 ムバラクはそう言いながらアラビア半島とインド、西欧諸国やロシアが入った地図を広げる。
「イギリスはクウェートの港からペルシャ湾を経由し、アラビア海からインドのボンベイへ行く。イギリスは西欧列強の中でペルシャ湾での優位を保っている」
 そう言って地図上にクウェートを起点とし、ペルシャ湾を通ってボンベイに向かう線を引く。
「ドイツは、近年オスマン帝国への接近が著しい。聞けば、ベルリン、イスタンブール、バクダートを通る鉄道を建設する計画もあるとか。その鉄道の終着駅はクウェートだ。ドイツもペルシャ湾を≪東方の道≫にしたいというわけだ」
 今度はドイツのベルリンからクウェートに至るもう一本の線を引いた。
「最後はロシアだ。かの国はペルシャ縦断鉄道を作り、ペルシャ湾への進出を目指し、クウェートを燃料補給基地にしたいようだ」
 ムバラクはまた一本線を引く。クウェートの上で三本の線が重なった。
「これはっ!?」
「ことほどさようにこの数年でクウェートの価値は急上昇したのだよ。まあ、特に問題とするのはイギリスとドイツだ……さて、いったいこの情勢下で、どの国なら一番高くクウェートを買ってくれると思うかね」
「……はっ?」
 アブドルアジズは地図から顔を上げ、ムバラクを見つめた。彼も探るような目でこちらを見ている。だがそれも一瞬のこと。すぐにいつもの人当たりの良い笑顔になる。
「そんなに驚くな。冗談だよ。だが、これで君もアラビアが置かれている状況が少し理解できたであろう」
 本当に冗談だろうか? あたかもアラブの地を異教徒に売ろうとするこの話が?
 ムバラクが油断ならない男だとは、出会った当時から感じていた。それでも彼と会うのが楽しかった。生まれてから今まで自分にこんな刺激的な話をしてくれる相手は誰もいなかった。
「父上、ウィルソン卿の使者がみえました」
 ふいにムバラクの息子の一人、サーリムが扉の向こうから告げる。
「君と話していると時が立つのも忘れてしまう。儂の息子たちもまあ愚かではないのだが、これほど教えがいはなくてなぁ……アブドルアジズよ、君が本当の息子で儂の片腕として事業を手伝ってくれればと思っているのだよ」
 その言葉にじわりと胸が熱くなる。ある言葉が口元まで出かけたが、アブドルアジズはそれを何とか飲み込んだ。
 ムバラクは、おそらく今でも中央アラビアの諸部族に影響力を持つサウド家に何か価値を見出して接近してきた。最初の頃は、その目の中に自分を値踏みするような気配があったことにも気づいてはいた。だから、彼の元でいろいろ学ぶにしても十分に用心しようと思っていた。
 だが、この五ヶ月のつきあいで、ムバラクからそういう気配はほとんど消えている。本当に自分のことを気に入ってくれている気持ちもあるのだと思う。何かと内心を隠す男だが、今の言葉は本心であると思いたかった。
 退出するアブドルアジズと入れ違いでイギリス人が部屋に入っていく。イギリス人は挨拶もそこそこに「なぜドイツ人と会ったのか、我々との約束を……」と声を荒げた。ムバラクは何かのらりくらり答えているようであったが、聞き取ることはできなかった。


(続)

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