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政治的な話

 さて毎回萌え萌え言っているブログ主ですが、この萌えドラマは、ちょっと政治的(?)に見るとやっぱりいろいろ問題を孕んでいるというか・・・その危険性があるドラマだとは思っています。まあ、「ある」とは言い切れませんが。
 今回はその話。と言うか、「このドラマの問題点はちゃんと認識しているのでつっこまないでください」という話です(笑)

1、共同抗日?


 えー、このドラマは中央軍(国民党軍)と八路軍(共産党軍)が非常に仲良く(まあ、末端レベルでは対立がありますが)抗日しているという・・・ちょっと、えっ? ってなるような設定です。時間設定はおそらく1941年以降だと思われますが、このドラマ上では鋤I南事変とかは存在していないのでしょうか?
 んん、このドラマの醍醐味の一つは、中央軍・八路軍・日本軍に属するそれぞれの登場人物たちのその所属組織同士の微妙な関係を背負った緊張感ある人間関係だと思います。なので中国近現代史にある程度詳しくないとこの微妙な関係のおもしろさを充分に感じられないと思うのですが、しかし詳しい人はかえって中央軍と八路軍の関係におもしろさ以前にしらじらしさを感じてしまうかもしれません(汗)。
(ただ、「日中戦争の後半、国共の関係は険悪だった」というのは、実は単なるイメージなのかもしれません。これはちゃんと調べないといけませんが、実際の歴史としては意外と良好な関係であった場合も多かったかな、ということなのかも)


 で、実はこういうドラマは「狙撃手」だけではないらしいんですよね。私はまだ少ししか見ていないのですが(で、これもけっこうおもしろそうなのだけど)、『中国兄弟連』といういかにもなタイトルの抗日ドラマもありまして、こちらは中央軍と新四軍のお話。どうもこちらも紆余曲折の果て、国共両党の部隊が心を通わせて戦う話らしいです。


 やっぱり見ていて「(政治的立場やら貧富の差を越えた)国難に対する民族(中国人)の大同団結」という言葉が浮かんできますね・・・。これは単に日中戦争という過去の話ではなく、現在の中国政府は、貧富の差や民族差別などの国内の矛盾を覆い隠すために「民族(中国人)の団結」「愛国心」というものを掲げている側面があると思うのですが、その問題とも絡んでくると思います。もしかしたら台湾独立問題とも絡んでくるのかもしれません。一時期話題になった第三次国共合作の話とかが、ドラマ見ていて頭の片隅をちらちらします。少なくとも階級対立は完全に放棄されたようで・・・・・・。


 で、国共が心を合わせて「民族大同団結」のために持ち出されてくるのが、日本という共通な敵なわけです。特に「狙撃手」では芥川という恐るべき強敵がいます。彼は日本軍の軍人というだけでなく、「日本軍の脅威」という象徴的な役目を担わされていると思います。


 特にドラマ最終話のラストシーン(ここの詳しい話は順を追って紹介しますので、今は意味分からなくても聞くだけ聞いてください。あるいはご自分で見る際にちょっと思い起こしてください)。
 ここの主人公の独白は(私の大春×竜を決定付けた台詞も含む)、本当に危うい。まさしく「日本という敵によって中国人が(その立場の違いを超えて)団結する」物語というふうにまとめられてしまいかねない台詞と流れです。私が萌えてしまった大春×竜の台詞なんかもろにそうだと言えば言えなくもない・・・・・・。


 ただその問題のラストシーンも、好意的な見方をすれば、一概にそうだとも言えない・・・かな、と思います。
 最終話で大春はある選択をしますが、その選択の結果こそが物語をそのような「民族の団結」といった単純なテーマに収束されることを阻み、物語に広がりと自律性(文学的な力)を持たせているように思えます。この大春の選択自体は別に「民族の団結」に反対するものではなくむしろそれを推進するものであったかもしれません。だがそのもたらした結果のあまりと言えばあまりな悲惨さは・・・このドラマを見る者の心に一種の<つまづき>を与えます。この<つまづき>、心の中に適当な置き場所を見出すことのできないもやもや感は、このドラマの結末をつまりそこで提示されたテーマを受け入れることを拒ませるような力があったのではないかと思います。


 また日本軍(芥川)という共通の敵の前の団結という話も、芥川の恐るべき力がその「敵」の象徴だとしたら「民族の団結」の象徴は、竜紹鉄と大春の友情(戦友・兄弟の情)です。
 しかしよくドラマを見ていれば、確かに芥川の存在は二人の協力関係を促しましたが、でも例え芥川の存在がなくても二人はやはり魅かれあい深い縁で結ばれたように思えます。少なくとも大春の方はそうだっただろうと。
 何故なら彼らが初めてあった時、まだ芥川はまったくドラマに登場していなかった。そしてその段階で大春はすでに竜のことが気になりだしている。そして彼が何故竜を気にしだしたかと言えば、少年兵や逃亡兵を射殺せざるを得なかった竜の苦しみを感じ取り、その苦痛に寄り添ってあげたいと思うようになったからでしょう。後者の件では芥川はすでに登場しているが、この段階で大春は芥川のことはほとんど意識していません。ただ戦争によって傷ついた竜のことばかりを意識しています。そして二人の関係は大春からの積極的な働きかけがなければ成立しなかったわけなので、大春が何を重視していたかは重要なことです。


 と、まあ、このように、このドラマは「日本という共通な敵に対する民族の大同団結」というテーマに収束されそうになりながらも、本当にぎりぎりの危うい所でなんとかそれを回避していると思います。それが「反戦をテーマにした」という監督の意図したとおりであるのか、あるいは時に製作者の意図さえも超えてしまう物語の自律性ゆえかはわかりませんが。



2.通説を覆す?


 このドラマでは国民党(中央軍・国軍)側の一部隊(段旅)を主役とし、抗日戦争での奮闘ぶりが書かれています。このようにかつては「国民党不抗日」と言われていたのに、近年では(留保つきながら)国民党側の抗日戦争での活躍を描く抗日ドラマは増えてきているようです。
 これは近年言われている「国民党の抗日戦争における活躍」の再評価という流れなのでしょうか? 私は単純にそのように言うことはできないと思います。


 歴史学的な再評価の側面があることは否定しません。ただやはりこのような表現が出てくることの政治的な意味というのも考えざるをえません。すなわち上で言及したように「民族の大同団結」と「愛国心」の物語が必要とされていること。これが必要とされる背景として国内的には「階級闘争の放棄」「経済的・民族的矛盾の隠蔽」、国外的には台湾の独立問題とも絡んだ国民党との協調路線(=第三次国共合作)などが考えられます。
(ちなみに「階級闘争の放棄」によってイデオロギーから解放された自由な研究が可能になったというのも短絡的です。そこにはまた新たなイデオロギーがあるのですから)
 

 これが「国民党の抗日戦での活躍」という表現に対する上からの需要です。それに対してそのような表現を欲しがる下からの需要もあります。
 つまり世間一般では、どういうわけか「通説」それも「勝者の側が主導した通説」よりも「従来の説を覆す新説」しかも敗者の側を再評価するような説がウケル傾向があるということです。
 もちろん歴史学的には新資料の発見や研究の積み重ねによって新たな説が生まれそれが妥当性があれば受け入れられるわけです。しかし世間一般では、そのような歴史学の論理とは関係なく、その「従来の説を覆す説」が「従来の説を覆す」ゆえに真実として受け止められる、ということが往々にしてあるように思えます。その新説が勝者の通説によって従来日陰者扱いされてきた敗者を再評価するものだったりするとさらに効果抜群です。(「今まで騙されてきたけど真実に目覚めた!」というやつですね)
 で、だいたいの場合そうなると「通説」とそこで高く評価されていることは地に落とされます。と言うより、このような「新説」が受ける理由の一つとして従来の「通説」を主導する勝者に反発が募っている(この場合中国共産党のことです)からこそそれと反対の説を求めるというのがあるのでしょう。
 しかし「新しいか古いか」「勝者の言葉か敗者の言葉か」「その説を唱える政権に反発しているかしていないか」を決定事項として変わっていく「歴史的事実」とはなんなんでしょうか。これらはあくまで歴史的事実を探る上での要素の一つにはなりえても、決定事項ではありません。カビが生えたような古臭い聞き飽きたしかも時の政権に都合がいいような「通説」でもそれが「歴史的事実」として学問的に極めて妥当ということはあります(私は決して「新説」や「再評価」に反対しているわけではなく、「新説」が「新説」であるということを理由に真実として受け止められることに疑問を呈しているのです)。


 まあ、何が言いたいかと言うと「国民党の活躍」という評価が「国民党不抗日」という評価と同じくらい政治的である可能性も考慮せず、しかもそれが「従来の説を覆す」というものであるがゆえに単純に受け入れ、そのあげく「中国でもやっと国民党の活躍を評価するようになった」とかさらに先走って「本当に活躍したのは国民党軍で八路軍こそ戦わなかった」とか言い出すのは・・・ちょっとアレだ、ということです。

 確かに歴史学的にも抗日戦争における国民党の活躍を評価していう流れがあります。ただ日中戦争を多少かじった者からすれば、国民党軍は活躍した/しなかった、八路軍(共産党)は活躍した/しなかった、という四つのどの評価もある程度真実でありある程度真実でないというのが最も妥当ではないかと思います。どの言い分もある側から見れば妥当であるし、ある側から見れば妥当ではない。総合的に抗日戦争の中での働きを評価すると言ってもどんなことを「総合的」と規定するかで、また評価も変わるでしょう。なんにしろ絶対に信頼できない説があるとすれば、そのような性質であるこの四つの評価のどれか一つを真実であると断定している説でしょうね。



3.癒しの物語?


 上では竜紹鉄と大春の関係を「民族の大同団結」の物語となる危険性があると指摘しましたが、これは一方で「癒し」の物語としての効果を持っているのかも、とちょっと思ったりもします。何に対する「癒し」かと言うと「内戦の傷」に対する、です。
 中国では抗日戦争の後、第二次国共内戦が起こり、共産党が勝利して中華人民共和国が誕生しました。この内戦が必然的であったかなかったか、どう評価すればいいかはとりあえず置いておいて、やはり同じ民族同士で戦ったことが傷にならなかったというわけではなかったでしょう。


 ところが『狙撃手』の中で、共産党員で八路軍である大春は、中央軍の竜紹鉄のことが大好きです。・・・・・・いや、もうBL的な意味じゃなくて・・・って言うかもうこれ素でBLだろうとは思いますが・・・・・・。
 もうドラマ見ていればそれは一目瞭然です。よく喧嘩や嫉妬(笑)もしますが、大春は竜と一緒にいる時は、本当に本気で嬉しそうです。竜と会えて自分は本当に嬉しい、幸せだという笑顔とオーラが伝わってきて、ああ~あなた本当に竜が好きなんだね~ってわかって、なんかそれを見ているこっちまでつい幸せな気分になってしまいます。人が人を好きになる感情と言うのは、本来その周囲までも幸福する力があるんだなぁ~というのを思い出すみたいな。


 う~ん、このへんフロイト先生にでも分析して欲しいですが、共産党員で貧農で悲惨な過去を背負ってきた大春が、中央軍のエリート軍人で裕福な地主(大春からすれば搾取階級)の息子である竜紹鉄のことを、お互いの属性をすべて超えて心から好きになってしまう、純粋な好意を傾けてしまう、そしてお互いに惹かれあってしまうということ。そしてその後の歴史を知っている視聴者は、二人に感情移入し、互いに対する計り知れない好意を追体験することで、その好意の暖かさと喜びを感じることで、どのような理屈でそうなるのかはわからないけど、(例え実際に内戦を経験していなくても)「内戦」という歴史的記憶を持つ国民は一種の癒しを感じるのではないかと。
 少なくとも私は癒されました(中国人ではありませんが! でももう十年近く、中国近現代史に感情移入しすぎているので)(笑)


 う~ん、かつては軽蔑していた「癒し」を求めるようになってしまうとは、自分でもだいぶショックですが。
 そしてそのようなほほえましい気持ちはそれはそれとして素晴しいとして、でもこの「内戦の傷」と言うのはそう簡単に「癒される」べきものなのか、という疑問は根強くあります(っていうかむしろいけないんじゃないかと思っています)。「愛」の感情によって、安易に「和解」や「友愛」が成立していいものなのか、あの「内戦」はそのような類のものであったのか・・・・・・このへんはうまく言えませんが、まあこの「癒し」も充分に危ういものを含んでいるということだけ心に留めておいてくだされば。
 ・・・・・・超萌えるんだけどね。



 さて、長くなりましたが、このドラマが孕む「政治的な問題」は一応これで終わり。「ちゃんとこのドラマの危うさは認識していますよ~」というアリバイもできたことですし、あとは何も考えず思いっきり萌え話を続けます!
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